ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

行間の山の中

 

 

 

 

 

2021/9/1

 

行間の山の中

 

親族の法事で、山の上のお寺に行ってきました。

法事、というものは、大事なものです。定期的に集まって故人を想う、それは故人と我々、両方のためのしきたりなのです。楽しいものではないですが、我々がより良く生きるために、時間を割かねばならん事です。

慣れない礼装でヨタヨタと、それでもしっかりと、果たしてきました。

 

こういう儀礼には、様々な意味があります。昔の人の生きる知恵の結晶であり、現代においてもなお、様々な意味の混成となっております。

しかしそういう意味は、言語化してしまうとおかしくなってしまうのです。混ざり合った意味は混ざり合った意味であり、分解された個々の意味であることを越えております。あるマーブル模様を伝えるためにはそのマーブル模様を見せるしかなく、口頭で伝える事は不可能なように、「混ざり合った意味」自体に意味があるのだと、私は思っています。

この辺は詩とか、歌詞とかと同じだと思っております。ただ「悲しい」って言ってしまうと、「悲しい」しかなくなってしまいますが、悲しさにも種類はあるし、感情が「悲しい」一色になる事なんか滅多にありゃしません。様々に混成されたモノを伝えるために、表現を厳選していくのだと、私はそう、思っております。

混成された意味は、感じるしかありません。何となく、で理解するしかありません。そういうモノだと思っていますし、それが大事だとも思っています。目を瞑り念仏を唱えながら、頭で、目で、肌で、喉で、しっかりと意味に浸ってきました。まだまだ未熟者の私、理解は当分先になりそうです。

 

お寺のある山はそんなに高い山ではないですが、それでもやはり山、外に出ると自然が溢れておりました。ツクツクホーシじゃない蝉もまだ鳴いていて、結構な音響を作っていました。しかし風はもう透明になり始めていて、夕暮れ時に少しだけ鳴くひぐらしが、夏の終わりを確かな線でなぞっていました。