ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

そして私はファズをはずした

 

 

 

 

2021/11/15

そして私はファズをはずした

作っているAIノンフィクションの曲、ギターソロに試しにファズを掛けてみたら、大層アガる出来栄えになる。アウトロの残響がTATOOありみたいになって最高がすぎる。しかしこうすると、曲本来のコンセプトからは逸脱する。掛けるべきか、はずすべきか、それが問題だ。夕暮れの六畳間でひとり、薄汚いハムレットは悩む。

ファズにショートディレイをかけた、いわゆる田淵ひさ子サウンドは私の大好物である。バズマザーズなんかもよく使っている、鉄板を引き裂くようなあの音である。その音で弾くギターソロに凄まじく憧れてはいるが、ノンフィクションにおいて私はリードギターではないので使う機会はない。だからAIノンフィクションではなるべく使いたいと思っているが、そうすると曲の主軸からズレてしまう。これは私のエゴなのか?

そもそも私独りで全部作っている曲にエゴも何もない、という説も確かにある。しかし、曲というものは最初は私の頭の中にあるのですが、出てくるにつれて私のもとを離れ、本来あるべきカタチへと変貌していくのである。それは例えば産まれた子鹿が自身の力で立ち上がろうとするような姿であり、それは本来の生態そのものであり阻害してはならない、とも思う。

変な話なのだけれど、音楽のみならずすべての創作物は、なるだけ作者がいない方が良いと思っている。究極の話を言えば、果実がいつのまにか実るように、自然が作り上げたようなモノが望ましい。その果実の土や木を育てた人はいるかもしれんが、果実を作ったのはその人ではない。そんな風な、作者の意図や影が見えない作品。何も婉曲されていない事がわかる作品。そういうモノが私は好きなのである。

そういう「自然」な創作物が、私の主観ではあるけれど、世の中には結構存在する。多分私がそう思ったモノは、その作品の作者もある程度同じように思っていると思う。創作物は人工物だけれど、人工物である事を悟られてはならない。一種の機能美のようなものを追求していかなければならない。

こんな思想を持ってるから、私はいわゆる「流行りもの」が嫌いなのです。流行った原因、その根源みたいなものならともかく、後追いで人の関心にあやかろうとする存在を私は嫌う。それはもうただの人工物であり、そこに自然はない。そういうものに対して軽蔑をするつもりはないけれど、それに敬意を持つ事は、私はできない。

私はもちろん儲けたいし、有名になりたい。しかしそれは結果としてそうありたいと思うだけで、儲けるため、有名になるために曲を作っているのではない。素晴らしいもの、美しいものを追求したくて曲を作って、ライブをしているのだ。私はサボる時はサボるし、落ち込みもする。色々ブレるしすべてに完璧に臨む事はできない。だけれどこの根幹だけは、いつまでもそのままで存り続けていたいと切に願っている。

 

まぁ、そうなると、やはりこの曲、ファズは外すべきだろう。あぁしかしこのソロ、この残響、惜しいがすぎる。だがこれは劇薬だ。薬品はそれを使ってしか育たない果実に使うべきであり、この果実はそれがなくとも過不足なく美味い。そのはずだ。

あぁ、しかし、惜しい。