2021/2/5
新説・言い訳
疲れからか、気分からか、流れからか、何もできない日は、ある。
こういう日は大概、何もできないと言うよりは、「何をやってもしっくりこない」というのが正しい。本もゲームもギターも似合わない時間、睡眠すらも似合わないが、何かをするよりはダラダラする方が楽なので、眠りと覚醒の間にあるぬるま湯から出られない状態。
こういう日には、いくら対処法を並べても無駄である。やる気を出すための、そのやる気すらない状態だからである。例えやる気が出たとしたら、その時はやなければならないのがたまらない。
ゆえに、時間を浪費する。別段珍しい現象ではない。ブログでも何度も書いている通り、私の人生には繰り返し発症する現象である。焦りも徐々に減ってきた。流れ行くのを待つのみである。
私に関するこの現象、この症状は、当然私は嫌いであるし、無くなって欲しいとも思っている。しかし、無くなってしまえばそれは確かに嬉しいが、これが無くなった私が果たして私なのかと言えば考えものである。
この症状を持つのが私で、この症状に焦ってきたのが私である。それは私の暗部であるが、間違いなく私の人生の一部分である。親兄弟と血を分けた事実が、生涯に渡って消すことができないように、これは私のものである。
「うまく付き合う」みたいな言葉は嫌いで、この症状と和解する気は毛頭ないのですが、これは私の一部である、その死んでも消えない事実を持って、また曲を書いていきます。