2021/12/21
公園の永遠
適当な用事を済ませた昼下がり、公園に来る。
マンションの間に広がる中規模な公園には、学校終わりと思われる小学生と、子連れの母親で溢れていた。平日の昼なのに、この賑わいは予測していなかった。学校はもう冬休みなのだろうか、それとも単純に短い日だったのか、どちらにせよ園内には人が溢れていて、その中で私は不審者と見られても仕方のない風貌をしている。昼食代わりの菓子パンとコーヒーを持ち、申し訳ない、と心の中で唱えながら、端の方のベンチに座る。
園内では「おかあさんといっしょ」のラストシーンのごとく、子供が走り回っている。毎秒の歓声と数秒ごとの奇声が、年末の空に吸い込まれる。今日はそこまで寒い日ではないが、奴らの薄着には驚かされる。
子供は好きである。単純に可愛いし、奴らの純真さには目を見張るものがある。遊ぶ子供をじっと見ているのも好きだが、たぶん私に子供を見られる事が嫌いな大人も結構いると思う。手に持ったブレンドとおさつロールを免罪符のように見せびらかし、しかしもうちょっとゆっくりしたいので、ちびちびと黒い水面を啜る。
これは本当に信じられない話だけれど、私にもああいう時間があったらしい。全身で走り回って、視覚も知覚も今よりもっと下だった、あの時間。私が今座ってるベンチにだって、両手を使ってよじ登らなければいけない、そんな時間が、私にも確かにあったらしい。
そう、私だって3歳のときはあったし、小学生の頃もあった。中学生も高校生も経験した。大学時代は流石に記憶に新しいが、30を過ぎた今となっては、あの頃の感覚はもう思い出す事はできない。思い出せるのは印象的な出来事や光景なんかの「思い出」だけである。それ以外はもう、私には思い出せない。
あの頃の、あの感覚。現在より空は遠く、地面に近かった季節。空気感、感情、小さいが確かにあった世界観、触れるモノ大体が楽しかったあの頃。同年代の友人との馬鹿し合いや、「大人」という存在とのコミュニケーション。多分こうだっただろう、何となくこうだったと想像する事はできても、あの感覚思い出す事は、もう私にはできない。そしてそれはもう、二度と体感する事はできない。
子供の声を聞きながら、そのまましばらくブログを書いていた。少し寒くなってきたのと、空になったコーヒーを飲むふりもそろそろ限界なので、誰かに声をかけられる前に帰るとする。
歓声と奇声はやむことなく続いている。奴らもいずれ大人になる。じきにここにも来なくなるだろう。それでもこの公園には、世代を変えていつまでも子供の歓声が響いているのだろう。永遠の幼少がここにはある。とても不思議な感じがする。