ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

ある夕餉とミュージック

2023/7/24

夕餉の時、キッチンの灯りだけついた部屋、火のついたコンロに乗るフライパンを眺めていました。空調の届かないキッチンに火が灯れば、凄まじいまでの汗をかきます。手早く済ませればいいのに、何故か私は野菜を切り、ヤキソバを作っていました。顎から汗を鳴らしながら、テフロンに粘着しようとする麺と格闘しておりました。

料理はそれなりにできます。名前のない料理を作って腹を満たすのは、大学生活で身につけた数少ないスキルのひとつです。いかに安く、また満足のいくもの、その交錯点を探していましたが、大抵はマヨネーズか醤油かその両方に落ち着いてしまいました。とりあえずもう、白米が進めば良いのです。

料理ってのは食べれば終わりなのが良いですね。失敗しても誰に迷惑をかけるでもない、我が胃の中に納めれば半分くらいはなかったことにできます。楽曲なんかが、皆が忘れない限りこの世に残ることを考えると、実に気楽なもんです。

飯は食わねばなりません。どんなことがあっても、食わねば生きていけません。なのでもう30年以上は飯を食らい続けているわけですが、これからも食わねばなりません。この辺は音楽と一緒ですね。よく「音楽は聞かなくても別に生きていける」という輩がいますが、そんなわけはないので気をつけましょう。人は死ぬぞ。

わざわざイヤホンで耳を塞がなくとも、世に音楽は溢れています。町の店舗内で鳴るBGM、テレビやユーチューブで鳴る音楽、電車の予告をするメロディ、学校のチャイム、広く見れば全部が音楽です。これらが全部なくなったらどうでしょうか。私はとても生きてられる気がしません。

まぁ我々は学校のチャイムを作っているわけではないのですが、音楽ってのは元来生活に密しているのです。そりゃ聞かなくても心臓は動きますが、心は徐々に死んでいきます。だいたい、人が自然に生み出したモノが不必要な訳がないのです。

だから偉いとか、だから貴いとか言うつもりはないのですが、少なくとも下に見られる謂れはないですね。なんでか、そんな事を考えながら焼きそばに目玉焼きを乗せて食らっていました。この食物はいずれ血肉となって私の存在になります。音楽もいずれは精神的な血流みたいなのを辿り、私の存在の一部になるのです。食器を洗いながらピロウズを口ずさみ、そんな事を考えていました。