ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

ナチュラルボーン

2020/5/9

 

 

歌詞を書いています。

歌詞、3回くらいで軽快に作り上げた方が、後に見返してよい歌詞になっている事が多い。

逆に、何重にも思考を錯誤させて、やっと完成させたものは、後で見返すと疑問符がついたりする。

考えれば考えるほど、自然の形、感覚の形から遠ざかって行くのだろうと思う。歌詞は理論で書くものだが、使うインクは感覚である。時間をかけると、だんだんと理論のペン先が感覚に溶け出して混ざってしまう。これが良くない。

しかも少しずつ変わるもんだから、微妙な色の変化に気づけなくなってしまう事が多い。これが、本当に良くないのよ。

 

奇妙な話。作品って人工的なものだけれど、優れた作品というのは極限まで「自然」に近いものだと思う。人が作ったはずなのにそれを感じない、まるで元々あったものを取ってきたような、その感覚。究極の自然体。

そういうものは生まれた瞬間から世界に馴染み、存在の意図すら感じさせない、在るから在る、在るべくして在るような作品。下手な人工物の発する独特の匂い、臭み。そういうものを一切感じさせない作品。

凄い話だよ、だってあなた、夕焼けを作れるかい?星空を作れるかい?海を作れるかい?そういう事をやってるんだよ。極端な話だけど、方向性は間違っちゃいない。

しかし、人間にはね、その存在にはね、夕焼けとも、星空とも、海とも、同等以上に張り合えるようなナニカが、本来的にあるのだよ。

ただそれを見つけて取り出すのが、めちゃくちゃに難しい。全然見つからないし、見つけてもものすごく脆いから、すぐ壊れてしまう。見つける力、運ぶ力、あとは外に出すときの穴の大きさとか、要因が多すぎて嫌になる。私ももう何度も落としたり、外に出せなかったりして、悔しい思いをしている。

ただね、難しいけど、不可能じゃないのよ。完璧に外に出すのは、不可能じゃない。成功させてる人も沢山いるし、私だって何度かは成功している自負はある。

ならばね、何度でも、何度でも、やるよ。その瞬間の喜びといったら、すべてを超越してしまうのよ。そしてその瞬間だけでなく、出来上がった存在は私の中で概念になり、死ぬまで私の喜びとなる。ならば何度でもやるよ。夕焼けを、星空を、海を、私は凌駕してやるのだ。

 

しかし私はちょうど今、歌詞が詰まってしまっている。

いかんなあ。いかん。

いかんが、これも不可能では、ない、はず。