ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

あくむのあさに

 

 

 

 

 

2022/9/19

あくむのあさに

凄まじいまでの悪夢を見ていました。

小学時代の恩師、担任の先生に久しぶりに再会し、彼の家にお邪魔して談笑をしていたらスムーズに宗教に勧誘され、私が断ると彼は激怒、激しく口汚く罵られる。そういう夢でした。ちょっと、あまりにもドギツすぎんか。

恩師、と言っても生涯の柱となるほどの仲ではない、しかし名前はいまだに思い出せるくらいの人です。私の知ってる彼は優しく、面白い人でしたので、目覚めた後はあまりのショックで少し塞ぎました。夢とはいえ、思い出に泥を塗られる感覚はしんどい。獏がいるなら残さず食ってもらいたいもんです。不味すぎるか。

塞ぎ込んだ勢いで縁起もなく思ってしまったのは、「その恩師が死んだ」という夢の方がまだマシだった、という事。本当に縁起でもないですが、その方が幾分かマシでしょう。思い出は綺麗なままアルバムの中で眠らせておきたいものです。

しかし、考えてみれば私は彼の事をそこまで知りません。小学校卒業後は会ってもいませんし、話も聞きません。彼の実態が夢の通りである可能性もゼロではないのです。それなのに「死んだ夢の方がマシ」というのは、ひょっとしたら私の身勝手な思いなのでしょうか。彼自身の幸福について何も考えられていません。私の中のイメージを保持してもらうだけに、思い出を担保してもらうためだけに、彼の実態が私の理想であって欲しいと思うのは、おかしい話なんでしょうか。

幻滅、という言葉があります。しかし幻っていうのは大抵受け手の頭の中で作られるものです。それこそイメージを商品にするタレントとかではない限り、勝手に作ってそれが壊されたから失望したというのは、書いてみればやはり身勝手な話です。当人のことを何も考えていない。勝手に一人で踊っているだけです。

しかしそれでも、わかっていても我々はイメージをしてしまいますし、壊されれば失望します。「そんな人だとは思わなかった」なんてね。卑怯な話ですが、それもまた人類の特性なんでしょう。なんだか虚しい話です。

目を覚ましたら、外は薄曇り。台風の余波がごうごうと窓を揺らしていました。予期せぬ襲来と破壊されるイメージ、私は別に恩師に連絡を取ろうとかそういう事は一切考えず、獏にすら食べてもらえなかったコレをどう料理したもんかと画策していました。また音楽でも作りますか。