ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

再三ノ感受性応答セヨ

 

 

 

 

2020/11/21

 

再三ノ感受性応答セヨ

 

パソコンとスマートフォンの普及により、いよいよもって液晶世界が現実を凌駕し始めた。結構な人が、外の景色よりも液晶画面の方が見ている時間は長いんじゃないだろうか。

液晶世界に埋没していくと、必要なものしか見えなくなる気がする。正確にいうと、システムしか見えなくなる。扉は空間を隔たるためのものであり、自販機は飲料を排出するためのものである。間違いではないのだけど、扉にも衣裳があって、材質がある。開くための装置があって、それを作った人がいる。自販機は鉄の塊であり、自身の装丁はもちろん、飲料の見た目だって目を引くように作られている。そこに置かれているのも企業の方々の下した結果であり、中身を補充するための人たちもいる。また当然、電気がなければ動かない。

人工物でそうなのだから、草木や道については、いよいよ背景にしか見えなくなる。その草木は悠久の循環を繰り返しており、その道を踏めば、延長線上には地球の核があるのだ。そういったものも、世界を少し彩るためのものにしか見えなくなってしまう。

別に誰かを批判したい訳ではなく、私自身もそうなる時が多々ある。液晶世界が原因というのも推測だけれど、あながち間違ってないとは思う。どちらかと言うとインターネットかもしれないが。

そういった時は、自身の色んな感覚が閉じてしまっているので、全身が鈍るのが何となくわかる。脳を休めて身体を休めて、自然に触れて何とかこじ開けねばならない。この我々を取り巻く自然や循環、大気の動き、存在の存在を感じられずに過ごすには、あまりにも勿体ないと思う。

現実世界のあらゆるものが、常に信号を発している。それらに応答することで、私はやっと一生物として現実世界と繋がれるのだと思う。