ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

ジャージ感覚

 

 

 

 

2021/3/3

 

ジャージ感覚

 

夕方前、惰眠の誘いを断ち切った私は、所用を済ますため、自転車で川辺を通っていた。

途中、少し開けた場所。草の上で寝ているジャージの人が居た。綺麗な仰向けで、緊急事態には見えなかったので、たぶん普通に寝ているだけだろう。とても気持ちが良いだろうなと、羨ましくなった。

ゆっくりしたくなったので、自転車を降りて、鍵を掛ける。流石に、草に寝転がれはしない。精神的にはできない事もないのだけれど、この風体のコートの男が草の上で寝ているのは、さすがに不審であろう。通報されかねない。ジャージ着てくりゃ良かったと思いながら、ベンチに座り、息を吐く。少し冷えるが、冷酷な空気ではない。川が流れる音が聞こえる。女の子が2人、バトミントンのラケットを振っている。風で緑が揺れて、空には飛行機雲がゆっくりと弧を描く。

また、息を吐く。

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風を、音を、光を、地面を感じる。

 

私は生きている。

各臓器の働きで生命を維持して、五感と神経で危険を回避して、脳と脊髄でよりよい環境を選び抜く。そうやって私は生きてる。

なのになんでか時折、脳だけで生きているような、そんな感覚を覚えてしまう。脳だけ、と言っても、水槽の脳みたいな話ではなく、思考と視界だけで生きているような時がある。

それは例えば、考え事をしながら散歩している時であるとか、呆けながら携帯をいじっている時とか、そういう時。器官も五感も神経も、もちろん動いているけれど、それらを特に気にする事なく、ただ考えている思考と目に見える視界だけで生きている。そんな時が、ある。

もちろん、気にならなければ気にする必要はないし、気にならないのは逆に安全な証拠だといえる。器官に不調がでれば体調に現れるはずなので、健康だともいえる。しかし、だからといって、それらが常に動いている事を忘れてしまうのは、あまりよろしくない、と思う。

私が何もしなくても、臓器は駆動して、五感は待機して、私を生かしてくれる。わかってはいるはずなんだけれど、いつも忘れてしまう。いつの間にか部屋が散らかるみたいに、友人との食事が先延ばしになるみたいに、気づけばないがしろにされている。

別に「お、今肝臓が頑張ってるな」なんて思う必要はないと思うし、常に五感を緊張させておくと疲れてしまう。だけど、たまには心臓の鼓動を感じて、空気の匂いとか、頬に当たる風とか、地面の感触を確かめることは、とても大事なことだと思うのです。それによって、具体的に何、という訳では、ないのだけれど。なんとなく。

 

少ししたら、自転車を漕ぎ出し、用へと向かう。寝ていた人も子供たちも、いなくなっていた。

この感覚は、たぶんまたいずれ忘れてしまうだろう。そうしたらここに来て、寝ていた人を思い出すといいかもしれない。これから暖かくなるから、とても心地が良いだろう。次はジャージで来てみようか。