ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

夢と夢

 

 

 

 

2021/8/12

 

夢と夢

 

中距離分の自転車を漕ぎ、今日の用事を済ませた、と思ったら夢だった。凄まじい徒労感で目が覚める。もう一度、用事を済ませに行かねばならん。架空の二度手間、ある意味悪夢である。

悪夢、悪夢か。そういえば私は定期的に悪夢に悩まされる。大学時代は、自分の部屋に何故か窪塚似の男が女を侍らせやって来て、私は部屋の隅に追いやられ、最終的にはベランダまで追い詰められる、そんな夢。20代の後半は、私主導の演劇、それがもう間もなく開演なのだが、まだ台本が完成しておらず、すでに満員になっている客席のガヤガヤを聞きながら机に向かって発狂する、という夢。毎日悩まされていた訳ではないが、どちらも1年で4回くらい見た。

今ではどちらも、すっかり見なくなった。アレは何だったのだろうか。夢占いみたいなのを見てもよくわからなく、そもそもアテになるのかどうか。何にせよ、目覚めから精神が削られるような事は少なくなった。

夢のメカニズムはまだよくわかってないらしい。わからなくても支障がない、という面もあるだろうが、これだけ人類が発達して、街頭に巨大な3D猫を解き放つ事ができるようになっても、毎日見る夢のことが正確にわからない、というはなんだか面白い。人類は全能でもなんでもない。ホモサピエンスよ、あまり調子に乗らないようにな。

それでも我々は、毎日夢を見る。眠りに落ちる瞬間を把握する事はできず、気がつけば夢の中にいる。そこで起こるありとあらゆる荒唐無稽に、何故か一切の違和感も持たず夢に順応する。その事は単純に嬉しく、とても楽しませてもらっている。

自身の遥かな目標のことを「夢」と呼び出したのはいつからなのだろうか。元々の意味はたぶん「夢で見るくらい荒唐無稽なこと」で、それがいつからか「自身の願望・目標」のように変化したのだろう。そういう意味では、夢のメカニズムはわからずとも、人類は夢に近づいているとは言える。

所詮は言葉遊びだけれど。「夢」という言葉が現代では力強い意味を持つように、発想や使い方ひとつでいくらでも意識を変える事ができるほど、言葉というのはとても強い。

私の「夢」はなんだろうか。そろそろ「夢」と口にするのも憚られる年代になってきた。私より年下で、私よりも遥かな目標を既に達成している人がいくらでもいるからだ。その事実は、なかなかにつらい。

とりあえずは「目標」を果たして行こう。どんな行き先でも、日々の動きの先にあるのは間違いはない。今日の用事を済ませようと外を見たら、弱くないくらいの雨が降っていた。これでは自転車は漕げそうにない。どうしたものかと考えていたら、昨日の用事の疲れもあり、もう一度目標でない方の夢へ向かってしまった。目標からは遠ざかるばかりである。