ヒズミ回想

とあるバンドマンの、変哲も平坦もない日常。

毒にも薬にもなる

 

 

 

 

2022/3/14

毒にも薬にもなる

過去のメールを整理していると、昔私がとある音楽スタジオで働いていた時のメールが出てきた。そしてその職場が本当に嫌いで、社長とマネージャーが糞野郎だった事を思い出した。

メールのやりとりを眺めているだけで、当時の怒りが呼び戻されてくる。そのころの私は若くて無能ではあったが、クズではなかった。奴等は有能かもしれんが間違いなくクズであった。

嫌な感情、これもまた曲にするとしよう。小倉にスマイルってスタジオがあって本当によかったな。あそこは愛に溢れている。それもいずれ曲にしよう。

 

最近はよく、「嫌なモノは見ず、絡まず、快適に生きよう」みたいな思考が支持されている。私としては完全に同意はできない。

もちろんそういうモノに無理して近づいたり、そういうモノに囲まれて生活をするのはやめた方が良いとは思う。負に凌駕された感情は、取り返しのつかない失敗を引き起こす。あれは本当に、良くないです。

だけど、そういう嫌なモノを完全に隔絶した世界ってのも、これはこれでどうかと思う。無菌室みたいな世界では、免疫機能とか耐性も落ちていくでまろう。たまに触れて、嫌な思いをして、嗚呼あゝ嫌だと反吐を吐きながら生きて行ったほうが、ある程度健全なんじゃないかとすら思う。

嫌なモノに触れた時の脳の反応、魂の揺らぎみたいなソレ、ある程度貴重な反応だと思う。我々は創作をやってるので特になんですが、そういう反応こそが、自分という存在の本質を理解するための手がかりになったりする。何に怒りを、何に嫌悪を感じるかってのは、その人の人間性がよく出てくる。紙に絵で光を描くには、影を描くしかない、という話かもしれん。

 

並んだメールのやりとりを見ながら、とても嫌な気分になったが、これもまた私の反応である。私を馬鹿にしてたくせに凋落したバンドマンとか、愛を歌ってるくせにライブのドタキャンを屁とも思ってないような大嘘つきとか、そういう奴等も定期的に思い出してはムカついている。健全かと言われれば微妙だが、それもまた私である。そしてそういうところから私は私を知り、また曲を作るのである。

 

どんだけ頑張っても、この先何があっても、世の中から悪意と不幸は消えないし、それらをすべて避けることは不可能なのでね。喜怒哀楽、今後どれかが不要になることは一切ないです。どれも適度に稼働させていきましょう。